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2024年07月09日 [横浜の通船・ラインボート ]

東京湾に今も残る海上要塞『海堡』とは?

はじめに


東京湾に今も残る軍事施設があるのをご存じですか?令和の時代に軍事施設があるなんて驚きですよね。今回は明治から大正にかけて築かれた海上要塞、『海堡』について紹介します。ジュピター▲第二海堡の監視のために横須賀新港に停泊するジュピター(手前)

東京湾の歴史を辿る〜『海堡』とは〜


ペリーの来航後、幕府は江戸湾の防衛を再度命じ、江川太郎左衛門は観音崎から富津岬までの防衛線と品川台場の建設を提案しました。これに基づき、江戸湾に最初の人工島が築かれました。品川台場は実際には使われませんでしたが、明治新政府は東京を守るために東京湾海防計画を進めました。

明治13年(1880年)、陸軍省は観音崎に第1砲台と第2砲台の建設を開始。これは明治時代初の砲台建設でした。東京湾の入り口には東京と横須賀を守るために24の砲台が建てられ、これらは東京湾要塞と呼ばれました。

その後、日本で唯一といわれる3つの海堡が築かれました。第1海堡、第2海堡、第3海堡は、観音崎から富津岬、猿島までの防衛線を強化し、敵艦の東京湾侵入を防ぐために海中に建設された砲台です。海堡には、砲台や砲台をつないでいたレンガ造りの地下施設、兵舎などがあります。第三海堡2▲第三海堡から移設された大型兵舎。壁面の傷跡が生々しい。

第一、第二、第三と、3つの海堡が造られたのは、富津市と横須賀市の間を通る、東京湾の入口浦賀水道。横須賀市から富津市が見えるほど近く、海幅最小 6.5km の狭水道です。また、航行する船の数の多さや潮流の速さから、日本屈指の航海の難所として知られています。
狭い浦賀水道を入口として、縦に70キロ続く東京湾の地形からしても、浦賀水道が首都を守るための拠点となったのは必然だったのかもしれません。浦賀水道

それぞれの『海堡』の現在


第一海堡


明治14年(1988年)に着工した第一海堡。富津岬の先端の水深1.2m〜5.0mの海中に築かれ、当初は富津海堡と呼ばれていました。役割を終えた現在は立ち入り禁止となっており、千葉県埋蔵文化財包蔵地に指定されています。

第二海堡


第二海堡は富津市の海域に位置し、明治22年(1889年)から建設開始、大正3年(1914年)に完成しました。⽔深8〜12mの海中に築かれましたが、強固な基礎と防波壁により、現在でもその姿を残しています。天気が良いと陸地から見ることができますが、実際に上陸して歴史的な資源を見ることができるツアーなども開催されています。

第三海堡


第三海堡は水深約40mの場所に造られました。第一海堡が水深5mほどだったことを考えると、工事が難航したことは言うまでもありません。また、潮流も激しかったことから、30年もの(明治25年から大正10年まで)歳月を要しました。しかし、竣工からわずか2年で関東大震災により倒壊。軍事技術の進歩で大砲の射程距離が伸びたこともあって、大正14年(1925年)に軍事施設としての役割を終えました。第二海堡全景▲写真は第二海堡。晴れていると陸地から見ることもできる。

おわりに


今回は東京湾に唯一建設された軍事施設、『海堡』について紹介しました。首都防衛の役割を終え、それぞれの姿を残す海堡。次回は、横須賀市内に移設された第三海堡跡地へ足を運んで、東京湾の歴史を辿りたいと思います。今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。次回のブログもお楽しみに🎵



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